H&Mは、世界中で愛されるファストファッションの巨人です。しかしその裏で、かつて43億ドルもの「売れ残り在庫」という深刻な病に侵されていたことをご存知でしょうか。
これは単なる経営ミスではありません。時代が求めるスピードと、従来型の大量生産モデルとの間に生じた巨大な亀裂でした。
本記事では、H&MがどのようにしてAIを活用し、絶望的な在庫の山を切り崩していったのかを解説します。画一的な店舗運営から、データに基づく「個店最適化」へと舵を切った復活劇は、在庫リスクに悩むすべてのビジネスパーソンにとって、明日から使える大きなヒントになるはずです。
導入背景:43億ドルの在庫過多と従来の限界
華やかなファッション業界の舞台裏で、H&Mは2010年代後半、創業以来最大の危機に直面していました。店舗には商品が溢れているのに、客足は遠のくばかりです。
そして倉庫には、いつ売れるとも知れない在庫が山のように積み上がっていました。この危機的な状況は、長年成功を収めてきたビジネスモデルそのものが、ついに限界を迎えたことを示していたのです。
深刻化した「売れ残り」と利益の圧迫

2018年、衝撃的な数字が世界を駆け巡りました。当時のH&Mが抱えていた経営課題は、数字で見るとその深刻さが際立ちます。
- 未販売在庫の総額:約43億ドル(当時約4,700億円相当)
- 営業利益の減少率:前年比 62%減(2018年第1四半期)
- 在庫処分の実態:発電所で衣料品を燃焼させるほどの物理的限界
在庫が増えれば、企業は現金を回収するために大幅な値引き販売を余儀なくされます。その結果、2018年には営業利益が前年比で62%も減少するという壊滅的な事態に陥りました。
作った服が定価で売れず、セールの赤札ばかりが目立つ店内。ブランドの価値は毀損され、利益は圧迫され続けるという、まさに負のスパイラルそのものです。
「世界標準」から「地域密着」への転換
H&Mがこの危機を脱するために選んだ道は、これまでの成功体験を捨てることでした。それまでのH&Mの強みは、トレンド商品を大量に生産し、世界中の店舗へ均一に送り込むという「スケールメリット」にありました。
しかし、消費者の好みは多様化し、SNSでトレンドが瞬時に入れ替わる現代において、この大味な戦略はもはや通用しません。
そこで彼らが目指したのは、AIとデータを活用した「ハイパーローカル」な店舗運営への転換です。世界一律の標準化をやめ、各店舗が立地する地域の特性に合わせて品揃えをカスタマイズする。巨大なグローバル企業が、まるで街のブティックのような細やかな対応をテクノロジーで実現しようとしたのです。
導入前の課題:画一的な品揃えとデータ不足
AI導入以前のH&Mの店舗運営は、極端に言えば「勘と経験」、そして「どんぶり勘定」に依存していました。
世界4,000店舗以上の巨大ネットワークを人間の手だけで管理しようとすれば、当然そこには無理が生じます。現場ではどのような課題が起きていたのでしょうか。
地域の好みを無視した画一的な店舗
かつては「クッキーカッター型」と呼ばれる、金太郎飴のようにどこを切っても同じ店舗作りが行われていました。北欧のストックホルムでも、南欧のローマでも、同じ時期に同じダウンジャケットが同じように並べられていたのです。当然ながら、気候も違えばファッショントレンドも異なります。
ある地域では飛ぶように売れる商品が、別の地域では全く見向きもされない。そんな当たり前のミスマッチが世界規模で発生していました。
結果として、ある店では在庫が余り、別の店では欲しい商品がないという「機会損失」と「過剰在庫」が同時に発生していたのです。
常態化した値引きと在庫の不透明さ
さらに問題だったのは、正確な在庫データが存在しなかったことです。「どの店舗に、どのサイズが、何着あるか」をリアルタイムで把握できている人間は、実は誰もいませんでした。データが不正確であれば、適切な補充も、店舗間での在庫移動もできません。
そのため、売れ残った商品はその店舗で値引きして売り切るしかありませんでした。結果としてマークダウン(値下げ)が常態化し、定価で購入してくれる顧客すらも「どうせすぐ安くなる」と買い控えをするようになります。利益率の低下は、不正確なデータ管理が招いた必然の結果でした。
導入の解決方針:「世界標準」から「地域密着」への転換
H&Mがこの危機を脱するために選んだ道は、これまでの成功体験を捨てることでした。それまでのH&Mの強みは、トレンド商品を大量に生産し、世界中の店舗へ均一に送り込むという「スケールメリット」にありました。
しかし、消費者の好みは多様化し、SNSでトレンドが瞬時に入れ替わる現代において、この大味な戦略はもはや通用しません。
そこで彼らが目指したのは、AIとデータを活用した「ハイパーローカル」な店舗運営への転換です。世界一律の標準化をやめ、各店舗が立地する地域の特性に合わせて品揃えをカスタマイズする。巨大なグローバル企業が、まるで街のブティックのような細やかな対応をテクノロジーで実現しようとしたのです。
導入効果:在庫精度99%達成と利益改善

背水の陣でAI導入とデジタルトランスフォーメーションを進めたH&Mは、劇的な成果を上げ始めます。それは単に「在庫が減った」というレベルの話ではありません。ビジネスの構造そのものが、高収益体質へと生まれ変わったのです。
具体的な効果を見る前に、H&Mが導入したAI在庫管理システムの概要を整理します。単に売上を計算するだけでなく、以下のような高度な分析を実行しています。
【導入されたAIができること】
- 多角的なデータ収集: 店舗のレシート、返品データ、会員カード情報などの内部データに加え、天候や地域トレンドなどの外部データも収集。
- 需要予測: 「いつ、どの店で、どのアイテムが売れるか」をアイテムごとに予測。
- 在庫の最適配置: 予測に基づき、各店舗に必要な商品だけを配送指示。
- トレンド分析: ブログやSNSから地域のファッショントレンドを抽出し、品揃えに反映。
このAIシステムがもたらした具体的な効果は以下の通りです。
【定量効果】在庫精度の向上と値引き削減
数字として表れた成果は、誰の目にも明らかでした。特に在庫管理の精度と利益率の改善は、AI導入の最大の功績です。
RFID活用による在庫可視化
AIに正確な予測をさせるためには、まず正確な現状把握が必要です。そのためにH&Mは、全商品にRFID(無線ICタグ)を導入しました。その結果、劇的な精度向上が実現しました。
- 導入前(手作業):在庫精度 65〜70%
- 導入後(RFID):在庫精度 99%以上
これにより、AIは「今、どこに何があるか」を正確に把握した上で「これから何が売れるか」を予測できるようになりました。
売上総利益率の改善と配送効率化
正確な需要予測に基づき、必要な商品を必要な場所に配置することで、無駄な値引き販売が減少しました。2019年以降の決算では、値引き率の低下が報告され、売上総利益率は改善トレンドへと転換しました。
また、在庫の配置が最適化されたことで、物流も劇的に進化しました。オンラインで注文が入った際、遠くの倉庫からではなく、在庫を持っている近くの店舗から出荷することが可能になったのです。
これにより、欧州の一部地域では翌日配送や即日配送が実現し、配送コストの削減と顧客満足度の向上を同時に達成しました。
【定性効果】地域特性に合わせた店舗改革
数字以上に重要なのが、店舗そのもののあり方が変わったことです。AIは膨大なデータの中から、人間では気づけないような「地域の癖」を見つけ出しました。
ストックホルム店の成功事例
最も象徴的な成功例が、スウェーデンのストックホルムにあるエステルマルム店での実験です。AIが地域の購買データやトレンドを分析した結果、このエリアの顧客は「ベーシックな服」よりも「高価格帯のアイテム」や「特定の花柄などのトレンド品」を好む傾向が強いことが判明しました。
この予測に基づき、H&Mは驚くべき決断を下します。なんと、それまで当たり前のように置いていたメンズとキッズの売り場を撤去し、レディースのトレンド商品に特化した店舗へと改装したのです。
さらに店内にはカフェスペースを設け、滞在時間を延ばす工夫も施しました。結果、売上は大幅に向上し、単なる量販店から「私のためのブティック」として地域住民に愛される店へと生まれ変わりました。
顧客満足度とサステナビリティの向上
「欲しい時に、欲しいものがある」このシンプルな体験こそが、顧客満足度を高める最大の要因です。AIによる最適化は、店舗を訪れた顧客が失望して帰るリスクを大幅に減らしました。
また、必要な分だけを作り、必要な場所に運ぶことは、環境負荷の低減にも直結します。売れ残りを廃棄するというアパレル業界の悪しき習慣から脱却し、サステナブルな企業としてのブランドイメージを回復させることにも成功しました。
【比較表】導入前後の店舗運営の変化
ここで、AI導入によってH&Mの店舗運営が具体的にどう変わったのかを整理します。
| 項目 | 導入前(〜2017年頃) | 導入後(2018年以降) |
| 商品配置 | 世界共通の標準セット (画一的) | 地域ごとのAI需要予測に基づく最適化 |
| 分析データ | 過去のPOS(売上)実績のみ | 気候、地域トレンド、返品理由、検索データ等 |
| 在庫精度 | 約65〜70%(不明瞭) | 99%以上(RFID併用による可視化) |
| 販売戦略 | 大量生産 → 売れ残りを値引き処分 | 需要予測 → 適量供給・定価販売の維持 |
| 店舗の役割 | 商品を陳列する場所 | 地域ニーズを満たすハブ兼物流拠点 |
導入時の課題:データの質と社内の反発
もちろん、ここまでの変革は平坦な道のりではありませんでした。新しい技術を導入する際、最大の壁となるのは常に「データ」と「人」です。
不正確なデータとインフラ整備の必要性
AIは魔法の杖ではありません。学習させるデータが間違っていれば、出てくる答えも間違ったものになります。H&Mが最初に直面したのは、社内の在庫データがあまりにも不正確だったという現実でした。
AIを稼働させる前に、まずはRFIDを全商品に取り付け、データを綺麗に整備するという地味で膨大な作業が必要でした。このインフラ整備こそが、後の成功を支える土台となりました。
ベテラン担当者の抵抗とAIとの協働
もう一つの壁は、社内のマーチャンダイザー(MD)たちの抵抗です。長年、自分の勘と経験でヒット商品を生み出してきたベテランたちにとって、AIの指示に従うことはプライドが許さない部分もありました。
そこでH&Mは、AIを「人間の代替」ではなく「強力なアシスタント」として位置付けました。AIはあくまで予測データを提供し、最終的な意思決定は人間が行う。このように役割を明確に分けることで、現場の反発を和らげ、人間とAIが協働する体制を築き上げました。
今後の展望:トレンド予測のさらなる短期化
H&Mの進化は止まりません。現在はサプライチェーン全体をさらに透明化し、素材の調達から顧客の手元に届くまでのトレーサビリティを強化しています。
また、トレンド予測のサイクルもさらに短期化しています。数ヶ月先の流行ではなく、SNSや検索トレンドを分析して「来週何が流行るか」を予測する。そして、その予測に基づいて生産計画を即座に修正する体制を整えつつあります。
これにより、在庫リスクを極限までゼロに近づける挑戦が続いています。
まとめ:AI活用による「売れる在庫」への転換
H&Mの事例が私たちに教えてくれるのは、在庫はもはや資産ではなく、管理すべきリスクであるという事実です。43億ドルという絶望的な在庫の山を前に、彼らは「勘と経験」に見切りをつけ、データという客観的な事実に経営の舵を委ねました。
AIを活用して顧客一人ひとりのニーズに寄り添うこと。それは最先端の技術を使いながらも、商売の原点である「お客様を見る」という行為そのものです。
変化を恐れず、データを味方につけた企業だけが、次の時代を生き残ることができるのです。


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